奥沢の石造大日如来坐像(奥沢の裸大日)
指定文化財について
- 名称及び員数
- 奥沢の石像大日如来坐像(おくざわのせきぞうだいにちにょらいざぞう) 2軀及び石碑1基
- 指定年月日
- 昭和46年10月1日
- 区分
- 桐生市指定重要文化財(石造物)
- 所在地
- 群馬県桐生市新里町奥沢546
-
当初像
年代
規模
-
元和7年(1621)像高:114センチメートル 、蓮華座36センチメートル
- 再建像
年代
規模 -
寛政6年(1794)
像高:116センチメートル 、蓮華座28センチメートル
総高:178センチメートル - 材質
- 2軀共に赤城山麓で産出する輝石安山岩製
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石碑
年代
規模
材質 -
寛政6年
縦60センチメートル、横40センチメートル
輝石安山岩製 - その他
-
常時見学可
駐車場:無トイレ :無
桐生市新里町の中央を東西に走る国道353号線を大久保交差点から北上し、道なりに東へ1.2キロメートルほど進むと奥沢地区の大日山へ至る。大日山の標高は398.5メートルで山頂南端に市指定重要文化財奥沢の石造大日如来座像が祀られている。
山頂南側の緩やかな斜面を一辺10メートルほどの方形に削平し、中央西側に元和(げんな)期、東側に寛政(かんせい)期の石造大日如来坐像が並列し南面する。両像の後方に大日如来像再建について刻まれた石碑が建立されている。
元和期の石像は、度重なる焼損と平成20年の大規模な松の倒木事故により頭部の落下、軀体・蓮華座・台石の破断など復旧困難な状態となっている。軀体は肩が張り、正面のわずかな痕跡から智拳印を結んでいたであろうことが伺える。背面は遺存状況が良好で納衣(のうえ)や条帛(じょうこう)の文様なども判別できる。頭部の造形は確認できず後補の可能性もある。
事故を免れた寛政期の石像は、形状や大きさなど元和期のものに倣い造られたことが伺える。方形の台座上に蓮華座を乗せ趺座する大日如来像は、どっしりとした下半身に比して上体はなで肩で丸みを帯びている。頭に宝冠を戴き薄く緩やかに刻まれた納衣に条帛をまとい偏袒右肩(へんだんうけん)する。胸前で智拳印を結ぶ金剛界大日如来の形をとる。膝部の裳(も)の皺や折り返しは上半身に比べまろやかで立体的に表現されている。ふくよかな顔の中央寄りに細い眉と小さく半眼の眼、低い鼻と小さな口が刻まれ額には白毫(びゃくごう)の痕跡がある。
石仏背後の石碑には、元和7年の昔に奥沢村の人たちにより大日如来像が祀られたが、寛政6年に焼失し、同年3月に新たに大日如来像を建立したと記されている。 この際に堂宇は再建されず、2軀の大日如来坐像は露座する状態となり、「裸大日」と呼ばれるようになった。焼失以前は堂宇のほか堂守小屋の存在も伝えられている。また寛政6年以前にも堂宇の焼失があったとの伝承もある。昭和36年の調査の際、敷地の東西南北4間四方に堂宇の礎石が確認されている。
※大日如来像は出家前の王族時代の釈迦を現すため、菩薩の様に冠や装飾品を身にまとう。偏袒右肩とは右肩を出して着衣した有様。本像は大きな一枚布の納衣を左肩から身にまとい、更に条帛という細長い布を左肩からかけて、腰にスカート状に裳を巻く。
※本像に至る林道わきに「大久保の石造大日堂」、東側には「奥沢の木造大日如来」、町内の他地区でも「小林の大日堂」・「鏑木の木造大日如来」などが存在し大日信仰が盛んであったことが伺える。金剛界大日如来は真言密教の中心仏であり、富士山信仰とも結びついて江戸時代には民衆にも広く信仰された。
※平成20年の毀損事故以前の状況や文化財指定時の資料として、昭和36年当時の新里村文化財専門委員長沢平八氏の調査記録を記載する「礎第13号長沢平八翁追悼号」を参考とした。
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